1.
 (ふう...)
 七瀬仁八郎は最後の段ボール箱を積み終えると、まくりあげた袖で吸われきれずに体毛の表面に吹き出した汗をぬぐった。額の毛皮が濡れて、固く尖って眉の上にちくちくと刺さるのをなで付けて直す。
 業者に頼んでおいた邂逅館紹介用の定期刊行パンフレットとチラシは、ただでさえもうすぐ行われる企画展に合わせて多く作られているのに、その上雑務室の狭い部屋に置かれてさらに容積を増しているかのように見えた。
 しばし休憩だな、と独りごちて、七瀬は圧迫感をも増した雑務室から空気圧に押されたコルクのように出ると、邂逅館に一ケ所しかない玄関ホール脇の喫煙コーナに向かった。普段は嫌なものでしかない館内のうすら寒さも、荷物運びで火照った今の身体には涼しいものとして作用してくれる。
 (...マ、肉体感覚なんて軽薄なもんさ...)
 七瀬は横に灰皿の置かれているソファに尻尾の位置を気にしながら座ると、そんな軽薄な肉体へのささやかな報酬として、煙草に火をつけた。
 邂逅館雑務室のメンバの中で喫煙者は狼人属である七瀬と獅子人属である克海天渡志の二人だけである。その克海は、今日も邂逅館から徒歩20分ほど離れた位置にある大学に、猫人属の雅真理を付属品(雅本人はあくまでもブースタだと主張している)として集中講議の授業のため出かけていた。
 全部で五人いる雑務室員の他の二人、室長である熊人属の枯末元と、邂逅館には珍しい人間の槇絵哲は、企画展用資料の搬送の付き添いとして、朝から隣の市まで出張している。その為、こうして七瀬が昼を過ぎてまだ間もないのに自主休憩をとっていても、見とがめる者は取りあえずはいなかった。

 採光性が高い吹き抜けの玄関ホールは、屋外の曇天と相まって今は寒々とした空間を停滞させていた。入り口の正面にかけられている、二十年ほど前に亡くなった世界的に有名な獣人画家の手による巨大なタイル画をぼんやりと眺めながら、七瀬はしばしの休憩(非公式ではあるが)を過ごした。煙草の煙を、肺まで落とさず口腔内で溜めて、ぼわん、と塊にして吐き出す。
 エクトプラズム、なんて芸に出来ねえかな...
 3秒ほどシミュレーションをしてみる。
 どうにも不愉快な反応だけしか思い浮かばないので、即座に却下とした。
 突然、後ろからノックの音がした。
 玄関ホールは漢字の「凹」の字のような構造をしており、まん中のへこみが入り口の自動ドアで、右上の一角、書き順で言うと四画目及び五画目の途中までが喫煙コーナである。七瀬はちょうど五画目の最初にあたる右上の横線の部分に、屋外に背を向けて座っている形であった。全面ガラス張りなので、外からは一目瞭然で七瀬の後ろ姿が見えるのである。
 反射的に振り向くと、ガラスの向こうには子供の悪戯を見つけた母親のような笑みを浮かべた人間の女性が立っていた。
 彼女はそのまま横の自動ドアを通ると、Uターンして七瀬の目の前までやってきた。



「さぼり発見、かな?七瀬君がそうしてる所を見るとゲンさんはいないみたいね。」
「...うるせえ。麻由美こそなんだ?こんな時間に重役出勤か?」
 だったら嬉しいんだけど、と彼女、東海林 麻由美(しょうじ まゆみ)は笑った。
 前述の通り邂逅館には珍しい人間の女性職員で、他の機関や施設との連絡や情報交換、問い合わせの処理や見学依頼などを主に取り扱う邂逅館外務室の一員でもあった。
 白いコートと同色のセータ。茶色いスカートとブーツ。
 レタッチソフトで描けば、クリック数回で色塗りが終わる楽な色使いである。
 風が強い外の気候のせいか、セミロングの髪が少しはねていた。
 彼女がかつてショートにしていた時とは大分雰囲気が変わって見える、という事を七瀬は逢う度に思ってしまう。しかし、それを口に出した事は一度もなかった。
 今も、顔をふせて煙を吸い込む事で平静と無愛想の自分に戻る事にした。
「七瀬君は昔っから誰も見てないとこだとすぐさぼるんだから・・・」
「見られているのにさぼるやつよりかはまだ可愛げがあるじゃねえか。」
「あれ?でも本当に七瀬君だけ?」
「ああ...他の奴らは雑用に飛び回ってるよ。」
「雅君も?」
「あいつは克海さんと一緒に出稼ぎだ。」
「搬送の付き添いにいってるのは?確か今日だったでしょ?」
「哲とゲンさんが行ってるよ。今回は借りるもんの数も場所も結構多かったからな・・・」
「じゃあ、愛しの哲君はゲンさんと一緒、ね。」
 しばしの沈黙が落ちた。
 くわえていた煙草からも灰が落ちる。
 七瀬は、片目を細めて東海林を睨んだ。
 東海林は眼を見開いておどけた表情を作っている。
 からかわれているだけだと分かっていても、反応してしまう自分。
 からかわれているから、とも言える。
 どっちにしろ情けない。
 七瀬は自分の中で不快指数(文字どおりの意味である)が上昇したのが分かった。
「そう言う事言って面白えか?」
「うん、すっごーく。七瀬君が怒ると特にね。」
「...聞こえたか?」
「え?...何が?」
「カチン、って音がだ!!さっさと仕事に戻りやがれ!!」
 怒らない怒らない、とおかしそうに言い、じゃあね、と挨拶を残すと東海林は振り返って歩き出した。とりあえず、報復として後ろ姿に向かって煙を長く吐き出してやる。
 ホールのがらんとした空間に、ブーツの足音が響く。
 ちょうどその時、ホールの向こう側からも一人の猫獣人が歩いてくるのが見えた。
 黒一色の毛並みの猫人属にしては大柄な身体を、派手なぶかぶかの服が包んでいる。ズボンの裾が片方だけまくり上げられているのはファッションなのだろうが、七瀬はどうにも中途半端な気がしてしまった。
 彼は東海林の姿を認めると、麻由美さーん、と呼ぶ。
 と、何故か東海林はちらりと七瀬の方を一瞬だけ見た。
 どうやら東海林と同じ外務室の一員のようだ、と七瀬が気付いたのは、そのまま二人が彼の持ってきた資料らしきものを手に話し込みはじめたからであった。
 部屋と扱う内容が離れているせいもあり、雑務室と外務室の面々は、普段は顔をあわせる事は少ないのである。



 東海林と猫人属の男の話は、割とくだけた内容の物に変化しつつあるようだ。
 親しげな口調。
 それに伴う意味の分からないジェスチャ。
 時おり柔らかい笑い声が混じる。
 そういった東海林の反応を独占できない事に静かなせつなさを感じて歯がみしていた自分はもういないようだな、と感じて、七瀬は心中密かに喜んだ。
 否、喜ぼうとした。
 一抹の切なさと疎外感が、煙とともにうっすらとまとわりつく。
 東海林が誰とどれだけ親しくなろうと、既に自分に嫉妬する権利はない。
 その理屈は十分に分かっている。
 だが、「感情」という湿った大きなスポンジを「理屈」という定規で押さえて切り分けようとすると、底面に近い所で密度が高くなりそれ以上は押し下げられなくなってしまう。
 上の部分は分かれているが、底は濃く固く残る。
 そして、じくじくとしみ出した汚水が自らを汚す。
 割り切ろうとすればするほど、底は曖昧。
 その猫野郎は誰だ?
 もう肩を触るほど親しいのか?
 俺といた時に、そんな笑い方を何回して見せた?
 やっぱり愛想の良い話し上手な男の方がいいんだろ?
 感情を整理、区別しきれない子供のようなわがままで理不尽な主張が、水面下で揺らぐようにぼんやりと浮かんでは消えていく。
 自分の一番奥底で騒ぐ、「独占欲」と「狭量」と言う名の曖昧な固いスポンジ。
 それはおそらく、濁った澱のような毒々しい色と味で存在しているに違いない、と七瀬は思った。理屈の範囲で制御できない、醜い無秩序な暴走。
 しかしもちろん既に、外側に滲み出るほど強いものでは無い。
 あってたまるか。
 尻尾も(軽く引きつってはいたものの)微動だにしていない。
 がしがしと頭を掻くと、意識のスポットライトを消し、思考をそらす。
 哲。
 ・・・くそっ!!
 七瀬は苦々しさに顔をしかめた。
 目の前の小石を避けて、地雷を踏んでしまった自分にいっそう気が滅入る。
 マイナスの気分は「重い」と表現される事が多い。重力によってお互いに引き付けあい、絡み合ってより大きくなってしまうものだからだろうか。
 ふと顔をあげると、二人がこちらを見つめている事に気がついた。
 ・・・!!
 顔が引きつる。
 ・・・やべえ、見られてた・・・か・・・?
 全身が羞恥で火照り、ひいたはずの汗がしっとりと吹き出すのが分かった。
 ちくちくとしたかゆみが背中や腕に発生する。
 東海林が猫人属の男に何か囁くと、彼は少し驚いた顔をした。
 そして、当惑した顔で東海林と七瀬の顔を交互に見る。
 当たって欲しくない予想ほど当たってしまうようだ。
 畜生・・・・・・見せもんじゃねえぞ!!!
 やり場のない怒りと自己嫌悪が、どうしようもない現実に接触して、みじめさへと結露する。何度経験しても、慣れる事はないのが悲しかった。
 煙草を揉み消すと、七瀬は立ち上がり、その場を去ろうと決めた。
 もともと、たっぷりとはない自信がさらに目減りしていたが、最後の矜持で七瀬はゆっくりと歩く。
 ・・・後ろから笑いやがったら・・・吠えるぞ・・・
 そう考えながら二人の横を通り過ぎようとした、その時。
「ねえ、七瀬君!!」
 東海林が七瀬を呼び止めた。


  2. 
 雑務室に戻ると、七瀬は自分のするべき仕事に取りかかった。
 山積みになっている段ボールを開け、送付先の住所の印刷されたシールの張り付けられた幾つかの封筒に、冊数を確認しつつ入れていく。
 尻尾はかすかに左右に揺れていた。
 現金なもので、機嫌は上向きになっている。口笛でも吹きたいくらいであった。
 つい先ほど東海林に、奢るから、と焼肉に誘われたためである。
 給料日前の外食。料金は向こう持ち。しかも肉。
 「快諾」という言葉を具体例で表したらこうなるとでもいわんばかりに七瀬はOKした。
 誘う東海林の魂胆が些か気にならないでもなかったが、その時はその時である。 
 ついつい鼻歌まで出てしまう。
 ・・・じーんせっい、らっく、あっりゃ、くーもあっる、さー・・・次なんだっけか?
 正確に言うと順序は逆なのだが、今の七瀬には小事であった。
 封筒の分が終わったので、次は学校や図書館等、大口送付先用の分の箱詰めである。
 既に用意されている別の段ボールを、開いて組み立て、中身をつめ、ガムテープで閉じた後、上面に住所の印刷された宅急便伝票を貼る。空いた段ボールは潰してぺしゃんこにして、まとめて立て掛ける。単純作業は一人で行うと自分のペースでできるため、思いのほか辛くはない。
 狭い雑務室の床は、たちまちの内に足の踏み場を考慮しなければいけないほど埋まってしまった。
 倉庫番、というパズルを七瀬はふと思い出した。
 ビール飲みてえ・・・と呟き、焼肉屋で注文するものに考えを巡らせる。
 ハラミ、タン塩、カルビ・・・は、3人前くらい頼むか・・・
 相手は東海林だから、遠慮はしなくて良いのが嬉しかった。
 あとひと踏ん張り、と自分を奮い立たせ、作業を続ける。
 もう少しで完了か、と言う時、ガムテープが無くなってしまった。
 数えてみると、箱はまだ4つほど残っている。
 七瀬は小人国にいた時のガリバーのように、積まれた段ボールやらソファやらを乗り越えて、雑務室の片隅にある室員共用のロッカーまで辿り着くと、中を覗いた。
 積まれた漫画雑誌(主に雅と七瀬が持ち込んだものである)や詰め合わせのお菓子の空き箱(捨てられていないのは伝統のなせる技であろう)、カセットテープ(内容は不明)や野球のグローブ(ボールは無い)などの雑多なものの手前に置かれた、文房具がごたごたと入っている箱の中を見る。
 セロテープやビニルテープはあるのだが、肝心のガムテープは、無い。
 七瀬の口から思わず舌打ちがもれる。
 ・・・ちゃんと補充しとけよ・・・ったく・・・
 先ほどの道程を逆戻りして雑務室の外へ出ると、七瀬は一番近くてガムテープの置いてありそうな総務室へ向かった。
 雑務室は邂逅館のわりと奥まった所にあり、近くには書庫や暗室や機械室、他には研究者用の部屋などが数室有るだけなので、総務室まででも少々歩くことになる。
 暖房の効いていない廊下は薄汚れたコンクリートの壁と相まってうすら寒く、七瀬は総務室へ小走りに向かった。
 袖をまくり上げていたため、むき出しの腕が冷える。
 ほどなくして、総務室へと辿り着いた。
 髪を赤く染めてドレッドにしている、なんともファンキィな外見の鼠人属の女性から真新しいガムテープを2つ貰うと、一緒に貰ったカラフルな飴玉(お使い出来た御褒美におやつあげるで〜、という関西弁は余計だったが)をなめながら雑務室へ戻る。
 飴玉は、見た目とは裏腹にあんこのような和菓子めいた味がした。
 ・・・そろそろ奴さんたちが帰ってくるな。
 他の室員たちが戻ってくるまでには終わるかな、と七瀬は思った。
 ちょうどその時、雲が切れたのか、廊下の窓から西日が射し込んだ。
 七瀬は、何気なく外に目を向けた。
 雪を頂いた山が遠景に見える。
 窓のすぐ向こうは職員用の駐車場だ。
 と、そこで七瀬の目が止まる。
 ワイン色の武骨な車体が邂逅館を背にして駐車していた。
 枯末の車。
 中には、枯末と槇絵がいた。

 ・・・・・・・・・・・・?!!
 
 槇絵が、握った枯末の手を、自分の頬にあてている。
 枯末は槇絵を、槇絵は枯末を見ていた。
 後ろからなので、七瀬には二人の横顔しか見えないが、愛おしそうな表情だと分かる。
 斜陽の射す寒々しい冬空。
 風が電線を鳴らす音。
 枯末が何か小声で言っているが、七瀬には聞こえない。
 二人は、見つめあったまま微笑む。
 槇絵はそのまま枯末の手の甲にくちづけた。
 ・・・・・・・・・・・・
 七瀬は動けない。
 全身が錆び付いてしまったかのように。
 心臓は、跳ね回っている。
 かすれた吐息が、七瀬の口から漏れた。
 車中の二人は、照れた顔で。
 幸せそうな顔で。
 笑っている。
 枯末の手がずれると、槇絵の頭にまわされる。
 二人の顔が近付く。
 槇絵が目を閉じる。


 
 七瀬の口の中で、がり、と飴玉が割れた。

 ・・・・・・
 雑務室の戸が開くと、コートを羽織った槇絵と枯末が姿を現した。
「・・・ただいまっと、・・・うわ、狭くなったな〜。七瀬、箱足りたか?」
「ふう・・・やっぱり中は暖かいですね・・・あ、七瀬君、頼んでおいた作業は終わってますか。お疲れさま。」
 段ボールだらけの雑務室は一通り片付いてはいたが、槇絵と枯末が入ると、また狭くなってしまったように感じられる。
 七瀬はソファに腰掛け、コーヒーをすすっていた。
 二人をちらりとだけ見上げると、再び目線を落とす。
「・・・お疲れッス・・・まだゴミ捨てて無いんすけど、後で・・・」
「んじゃ、俺行ってくるよ。」
「いや・・・槇絵、疲れてんだろ・・・休んどきな・・・コーヒーいるか?」
「お、七瀬、嬉しい事言うね・・・えっと、ゲンさんは・・・?」
「それじゃあ、私の分もお願いします。」
 七瀬は、そのまま戸棚からカップ二つ(そう、二つだ)を出すと、ポットからコーヒーを注いだ。
「ほい・・・ゲンさん、どうぞ。」
「ありがとうございます。」
「俺のは?」
「あそこに置いてあるのが見えねえか?」
「お〜い・・・まったく・・・」
「ガキじゃねえんだから自分で取って来れんだ・・・うおっとぉ!!槇絵、てめえ!!箱にかかったらどうすんだ!!」
 槇絵に小突かれて、七瀬の手にしたカップからコーヒーがこぼれそうになった。
 七瀬も槇絵も、くだけた調子で笑う。
「ははは・・・人間甘く見ると後が怖いぞ?」
「へっ!!毛も生えてねえ種属なんか怖かねえぜ。」
「あははは・・・どこの毛だよ。」
 あ、そうだ、とその様子を微笑みながら眺めていた枯末が思い出したように言った。
「報告に行ってこないといけないんでした・・・ちょっと、行ってきますね。」
 カップを持ったまま、枯末はのそのそと部屋を出た。
「・・・あのゲンさんの様子だと、特に問題は無かったみてえだな。」
「うん、今回は特には何も、だね。挨拶まわりの件数がちょっと多かったくらいで。あと道路が込んでてね・・・」
「いいじゃねえか、ゲンさんと二人っきりの時間だろ〜?」
「・・・う、ん・・・まあね」
 はにかんだ顔で槇絵が頷く。
 七瀬は、面白がっているかのように、にやりと笑った。
 槇絵が続ける。
「ゲンさん、階段登る時とかに、ふーふー言ってるんだもん。笑っちゃったよ。」
「マジか?はっは!!痩せろっての!!」
「『後ろから押しましょうか?』って聞くと『・・・みっともないから、それだけは勘弁して下さい・・・』ってさ・・・」
 枯末について話す槇絵の笑顔は、本当に嬉しそうだ。
 晴れ晴れとしている。
 七瀬も、笑いながら話を聞いた。
 顔だけは、笑いながら。

 槇絵を見つめる瞳の裏側で、七瀬は思った。
 その笑顔ごと、槇絵を抱き締めたい、と。
 この牙で引き裂いてやりたい、と。
 自分だけのものにしたい、と。
 食らい尽くしたい、と。
 幸せにしてやりたい、と。
 不幸にしてやりたい、と。

 槇絵の笑顔は、俺にとっての日射しだ。
 それは、自らを照らし、俺を照らす。
 暖かく、明るい。
 そして、俺の中の影となった部分を、日射しが消えてしまってからの夜を、より濃く、より深くまがまがしい闇にしてしまうのだ。


  3.
「はい、それじゃあ、今日も一日お疲れさまでした!!」
「お疲れさまです!!」
「・・・うーっす」
 ビールの入ったジョッキが触れあい、乾いた音がした。
 ほぼ満席の店内には、喧噪が渦巻いている。まわりが適度にうるさいと思考はまぎれるため、今の七瀬にとってはありがたい状況である。もともとこうした環境は、嫌いな方では無い。だがしかし、今はそんなことはどうでも良かった。
「・・・どうしたの?七瀬君。表情暗いよ?」
「・・・あん?いつもの事だろ?」
 落ち込んでいる事を東海林に悟られて、心中慌てながらも七瀬は平静を装いつつ、返事をした。
 邂逅館での仕事が終わり、駅前で東海林と待ち合わせてから来た近くの焼肉屋。
 奢りだ、奢り。
 七瀬は良い事を無理に考えようとする。
 もちろん、気分は低空飛行で上昇の気配すら見せない。
「いいじゃないですか、七瀬さん渋いッスよ!俺なんか黙れっつわれても黙れないですから。」
「あはは〜、七瀬君、渋いってさ、良かったね。」
 原因の一つとして、目の前に座っている人数が二人だ、と言うことが挙げられるだろう。そう、東海林の隣には、昼間玄関ホールで東海林と話していた黒猫人属の男がいるのだ。
 ・・・ヨシノ、とか言ったっけか・・・
 邂逅館で働いているよりも、休日の渋谷か深夜のコンビニ前に座り込んでいる方が似合いそうな服装をしている。
 駅で待っていた七瀬のもとに、東海林とその男が一緒に現れた時、一瞬帰ろうか、と思ったほどだ。
 麻由美・・・趣味が変わったのか?
 少なくとも、目の前の猫人属と自分の間に、共通項は見出せない。
「変わるのが自然で、変わらない方がかえっておかしい」と言ったのは誰だったか・・・
 七瀬は、煙草が吸いたくなった。
 そうこうしている内に、注文したものが、次々と運ばれてくる。
 とりあえず、機嫌のもとは取らないとな、と七瀬は箸を割った。
「さ、七瀬君も吉野君も食べて食べて。今日はせっかくの・・・」
「せっかくの・・・なんだ?」
「うーんと・・・お見合い、かな?」
 東海林が一人で笑う。吉野、と言われた猫人属の男は、困ったように愛想笑いを浮かべ、しきりに頭をかいていた。
 身体は大きいが、おそらくはまだまだ若いに違いない。
 それほど悪い男でもなさそうだ。
 東海林とも、お似合いに見えなくもない。
 ・・・やってらんねえぜ、ったく!!
 こうなれば開き直るしか無い。
 七瀬は袖をまくった。

 開いた皿が片付くと、テーブルの上は大分広く感じられた。既に三人とも、煙草を吸い出している。七瀬も満腹で、ベルトがきつく感じられる程には食べた。
 腹がくちくなれば、不機嫌もどこかへ去ってしまうのは世の常である。七瀬も、吉野とやらの冗談に大声で笑うくらいの余裕は出ていた。
「あ、ごめん、あたしちょっとトイレ行ってくるね。」
「大きい方ですか?それとも大きい方ですか?」
「うん、そう、あたしはいつも大きい方しか・・・って、ちょっと!!・・・ふふふ、吉野君、明日は残業だよ・・・」
「ああ!!麻由美さん、ごめんなさーい!!冗談ですってば!!って、ねえ!!」
 東海林は笑いながら店の奥へと去ってゆく。
「・・・ははは!!あいつは怒らせると怖いぜ〜?」
「ですよね〜!七瀬さん・・・あ!・・・今のは麻由美さんには内緒でお願いします!!」
「はははは、わーってるっての・・・」
「それにしても、今日はわざわざすみませんでした!ほんとに・・・」
「あん?別に麻由美の奴に誘われただけだからよ・・・お前さんが謝ることじゃねえよ。」
「え、あ、いやまあ・・・七瀬さんが良いんなら俺は良いんですけど。」
「吉野君は・・・」
「呼び捨てで良いッスよ。全然。」
 変な日本語だ、と七瀬は思ったが、気にせず続ける。
「吉野は邂逅館には・・・確か、もう3年くらいになるのか?」
「ええ、もうそんくらいッスね〜。仕事教えてくれたのが主に麻由美さんで・・・」
 そのまま、他愛もない話が続く。
 ふと、七瀬は妙な事に気付いた。
 吉野が、初対面のはずの七瀬から目線をそらさないのだ。猫人属特有の大きな瞳で、じっと見つめられている。そういえば、食事中もずっと、自分の方ばかり見ていたような気がする、と七瀬は思い出す。
 ・・・元彼の品定めか?、と七瀬が感じたその時。
「あの、七瀬さん。」
 突然、会話の切れ目に吉野が真剣な目をして聞いてきた。座っている目、ともいう。
 『麻由美さんを僕に下さい!!』と言われても吹き出さないように、七瀬は身構える。
「・・・あ、ああ、なんだ?」
「麻由美さんと昔付き合ってたって、本当ですか?」
 ・・・おっと、そうきやがったか・・・
「・・・ああ、本当だぜ?」
「・・・・・・なんで、なんで別れたのか聞いてもいいッスか?」
 ・・・はは、若いってのは羨ましいよな・・・
「聞きてえか?」
「はい!」
 煙草の煙を吐き出すまで、沈黙が落ちた。
「・・・あいつが俺のガキを堕ろしたからだよ。」
 その言葉を言った時、七瀬は胸の奥の固いスポンジが、いっそう固まるのが分かった。
 吉野の目が、大きく見開かれる。
「え!!・・・マジッスか!!...そうッスか...」
 吉野の真剣な表情は、変わる事はない。
 ・・・まだまだ若い若い・・・・・・
「・・・はっは、すまねえ、冗談だよ・・・おめえがあんまり真剣な顔して聞くもんだからよ・・・つい、な。怒ったんなら謝るぜ。」
「ふあ・・・いや、マジ驚きましたよ・・・ったく、人が悪いッスねえ。ははは・・・」
 場を取り繕うように、軽い口調で頑張る吉野。
 ・・・いい奴だな、こいつは。
 時間や重さに関わらず、相手を受け止めよう、と真摯に頑張れる性格だ、と七瀬は思った。その姿勢さえあれば、時間はかかる場合もあるだろうが、まず受け止め損ねることはないだろう。
 理屈による根拠はない。
 胸の奥のスポンジが、そう言っているのだ。
 ちょっとごめんな、と呟いて、七瀬もトイレに立った。

「・・・あれ?七瀬君もトイレ?」
 トイレの前の手洗い場で、東海林とすれ違う。
「ああ・・・」
「吉野君となんか話した?」
「ん・・・あいつはいい奴だな・・・きっと。」
 胸の内を正直に打ち明けるのは、久々で。
 清々しくさえあった。
 きっと、アルコールのせいだろう。
「・・・でしょ?七瀬君ならそう言うと思った・・・ふう、良かった・・・」
 東海林は心底から、とでも言わんばかりにっこりと笑った。
 その笑顔を間近で見るのも、久々で・・・
「ま、あいつなら俺も許すぜ・・・せいぜい清い交際してくれや。」
 すぐに、いつも通りの、心とは裏腹なことを言ってしまう七瀬が戻ってきてしまう。
「それにしてもお前も律儀な事するよなあ・・・新しい男が出来たら出来たで普通に付き合や良いじゃねえか・・・それとも、俺がストーカにでもなるように見える・・・あん、どうした?」
 東海林は、眉をひそめている。
「?・・・!!・・・っあはははははは!!」
 と、不意に東海林が吹き出した。
「!・・・おい!なんだよ!!」
 七瀬は焦るが、東海林は構わずに、おかしい、おかしい、と繰り返して笑い続ける。
「こら!!何笑ってんだてめえは!!・・・店員が見てるじゃねえか!!」
「っは、っは、っふふふ・・・・ごめんごめ〜ん。だってさ、七瀬君がすごい所で勘違いしてるから・・・」
 東海林は涙を拭きながら、七瀬を見上げると、いたずらっ子のように微笑んだ。
「・・・なにがだ?」
 七瀬は、戸惑いと憮然の入り交じった表情で、聞き返す。

「あのね・・・吉野君が好きなのは、あたしじゃないの。」
「・・・?」
「今日はお見合い、って言ったでしょ。」
「・・・・・・・・・!!」

 気付いた?、と東海林はまた笑う。
「『雑務室の七瀬さん、かっこいいですよね。付き合いたいな・・・』って、結構前からあたしに相談してたのよ?」
「・・・・・・!!」

「吉野君って、いい子、よね?」
 東海林が、面白そうに聞いてくる。
 七瀬は立ち尽くしたまま。
 否定できなかった。
 言うべき事と、言いたい事と、言っても良い事がぐるぐると頭の中で駆け巡る。

 ・・・畜生・・・・・・吠えるぞ・・・?

 ------------ 了 ------------


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