1. 雅 真理(みやび まさとし)は隣でまだ寝ている熊人属の男を起こさないようにベッドからそっと抜け出した。 部屋はまだ薄暗かったが、猫人属の男の雅にとってはさして不自由はなかった。フローリングの床には絨毯が敷かれており、足音を殺す必要もなく洗面所へ向かう。 うっわ、首痛えー...寝違えたかな... 腕枕をせがんだのは確かに自分だが、若干大きすぎたようだ。雅は、成人しても小柄な体格が特徴である猫人属のなかでも、小さい方である。男性なのだが、猫人属の女性の平均身長をも下回る程だ。 明かりをつけ、鏡を覗く。 昨夜(正確には今朝)までの激しいセックスのせいか、眼が少し充血していた。全裸の身体を見回すと、青灰色の毛並みの中に、ベッドで寝ている熊人属の男のものらしい焦茶色の毛が何本か混じっている。 全身の寝癖もひどい。長めの尻尾を一振りすると、雅はシャワーを借りる事にした。 ...hーきもちいーーー......強面のわりに結構優しい人だったよなあ... ハッテン場の暗闇の中で逢った時は、いきなり押し倒してくるからびびったけどね...割とモノも良い形してたし...見ず知らずの俺をこうして自宅にお持ち帰りだし。 ...んでも、ちょーーっとやり方が激しいかな?......嫌いじゃないけどさ。 ...ケツがまだズキズキすゆよー...まあ、ゴムは着けてくれたからいっか。 シャワーを出ると、バスタオルが用意されていた。彼も既に起きているようだ。 例え一夜限りの関係、と割り切られていたとしても、こういう心使いは嬉しい。 ここからだと、獣人研究所である邂逅館までは電車の乗り換えがあるのでそろそろ出なければいけない。 挨拶くらいはしていきたかった。 ...えーっと、あのクマさんの名前、なんて言ったっけか? 2. 槇絵 哲(まきえ てつ)は、布団から出るべきかどうか真剣に悩んでいた。 時計は出勤の時間が近い事を告げている。そして、部屋の温度は下がり切っていた。 「時は金なり」と言う諺が本当なら、貯金をおろしてでも買いたい、と毎朝この時間には思ってしまう。1時間あたり5000円までなら出しても良い。 いささか安すぎる気はしないでもないが、何事も身分相応に、が槇絵のモットーでもある。木造アパートの六畳一間の住人ならば、こんなものではないだろうか。 寒い国の人が優しいのは、こんな朝を多く体験して精神修行を積んでいるからかな。 禅寺にはエアコンなんてないのはそれを逆手にとった道理だ...自然には結局は勝てない事を思い知らせてるんじゃないのかな...... それじゃあタタキにされるカツオなんかも修行か。いや、あれはそもそも火あぶりであって、こんな極楽から転落、って訳じゃないし...カツオは修行僧よりも悟りに近い位置にいる、のか......?...んな莫迦な。 時計の針は何よりも勤勉に進む。これ以上ぐずぐずしている訳にもいかない。 槇絵は埒もない空想を断ち切ると、もじもじする身体を何とかして引き起こす作業に取りかかった。筋肉質で比重の重い彼にとっては、厳しい戦いである。 それでもなんとか布団を剥がすと、トライアングルを力一杯叩いたような勢いで、寒さが一気に染み込んできた。 体毛に覆われている獣人属と違って、毛の少ない人間である自分の身が悔やまれる。 そう思う槇絵のせめてもの抵抗は、身体に巻き付けた薄掛けであった。行儀なんて物は冷暖房完備のブルジョワジーに任せておけば良い。 寒い部屋の空気は、ストーブの電源までの距離と部屋が温まるまでの時間を飛躍的に増大させるという驚くべき効果をもたらした。 ...タイマー付きのストーブ、今度の給料で買お... 3. 枯末 元(こずえ つかさ)は壁時計の音で、出勤時間が近い事を知った。 ちょうど朝食に使った食器を洗い終わった所であり、手を拭いてエプロンを外す。 既にワイシャツとスラックスに着替えていたので、そのまま居間へ行くとたんすの中からネクタイを選んだ。この間の誕生日に槇絵からプレゼントされた物にしようか、と考えたが、職場で顔をあわせる事を考えるとどうしても躊躇してしまう。 せっかく恋人から贈られた物だし実際に使って喜ばせたいのだが、古風な考え方の枯末にとっては気恥ずかしさが先立ってしまうのだ。 照れ臭い、と言う歳ではないだろうにとも思うが、そこが自分の可愛さだと自惚れる事にしている。 まあ、獣人の中でも比較的大きな体躯に分類される熊人属の男である私が可愛げを掲げてもどうしようもないんでしょうけど、ね... 昔ながらの一戸建て家屋はしんと静まり返り、枯末が歩く時にたてる畳の擦れる音や廊下のきしみがやけに大きく響いた。 ...今日は実務室からの調査報告書が届くはずですからそれを読んで、既存の類似データを選別する作業がメイン...あ、あと来年度予算会議の打ち合わせも午後からあるんでしたっけ...やはり委員を引き受けない方が良かったかなあ... 雅くんに任せておいた資料整理案の原稿は...まあ、一応眼を通しておく位はしと きましょうか......やれやれ、月の後半は相変わらず忙しい...... ...んむ...む......っと...ぐえ...... 熊人属の枯末は身体が大きい。ゆえに指先も太く、ネクタイを締めるのも中々大変なのである。邂逅館では表向きは服装が自由とは言え、室長である自分の身分としてはいろいろな面でスーツが相応しいだろうと言う考えから、今日も枯末は、少しの苦労を強いられる羽目となった。 壁の時計をちらちらと見ながら、長さがちょうど良い具合になるように調整する。 ...ひょっとして、また体重が増えて首回りが太くなったのかな...... 4. 克海 天渡志(かつみ たかとし)はいつも通りの時間に眼を覚ました。 寒いな、とは感じたが、この国では冬は寒くて当たり前なので気にせずに布団を出る。 獅子人属の男に特有のたてがみが目の前にかかってくるのをかき上げながら、寝巻きのままでキッチンに行くとポットにフィルタを乗せて、コーヒーメーカをセットした。 そのままリビングに行くと、煙草に火をつける。 これが克海の毎朝の習慣である。 殺風景(と克海自身が感じた事はなかったが)なマンションの一室には、ベッドとテーブル。パソコンを乗せたデスクと幾つかの本棚以外にはほとんど何もない。オーディオセットが部屋の隅に置かれてはいるものの、まるでそこに存在する事が恥ずかしい、とでも言わんばかりにほこりをかぶってひっそりとしていた。 克海はぼうっと煙草を吸いながら、コーヒィが出来上がるのを待った。 蜂蜜色の顔の毛並みを、煙りがゆっくりとねぶって立ちのぼる。 ...ああ、そうだ。砂糖を切らしていたのだった...買い置きも...ないな。 まあ、たまにはブラックも良い。より眼が覚めるに違いない...うん... ...最近こうして明らかに良い方に解釈して自分を納得させてしまう現象が増えたが ...これが成長と言うものか...ん?今のも納得させてる、な...... 自分も人並みに莫迦になれたと言う事か...ああ、これも良い方に、だな... きっと、自分ももう歳なのだろう......これはそれなりに不愉快だぞ、うん。 勢い良く煙草を揉み消すと、微かに眉をしかめてキッチンへ向かった。 タイル張りの床がぺたぺたと鳴った。足の裏の、毛がない部分が冷たく痺れる。 それにしてもたてがみがうっとうしい。後ろで結って留めるか、潔く散髪に行くか、克海は決めかねていた。変化を恐れるようになったのは、いつからだろう。と、ふと考えたが、カップに口をつけた瞬間に頭のどこかにしまわれてしまった。 ...まだまだ精進が足りんな...... 5. 七瀬 仁八郎(ななせ にはちろう)は邂逅館の雑務室のソファの上で起きた。 それほど広いわけではない部屋に、幾つかの書棚や机と共に申し訳程度に置かれている応接セットの一つで、毛布を掛けただけで寝ていたのだ。 結局、室長の枯末(皆ゲンさんと呼ぶが)に無断で泊まり込んでしまった事を、ぼんやりと思う。 身体のあちこちが軋んで痛い。ソファも自分の身体も安物だから仕方がない、と諦めずり落ちていた毛布を掛け直した。エアコンを付けっぱなしだったので、シャツが汗ばんで少し気持ち悪かった。 狼人属らしい茶色のふさふさとした尻尾がもう下敷きにならないように、横向きになる。同僚の面々が出勤してくるまでまだ多少の時間があったので、もう少し位はまどろんでいたかった。もし不幸にも二度寝という天災に遭ってしまっても、一番先にこの部屋に来るのはきっと人間の槇絵の筈だ。優しい彼に、上手く口裏を合わせてもらえば良い。 ...それとも...室長の熊のゲンさんが一緒かよ...? ふとそう考えて、七瀬は薄暗い中、切なさに身を縮めた。 ...週末じゃねえんだから、いくら何でもお泊まりってこたあ無いよな... ...雅の野郎とは違うからな、両方とも...でも可能性が無いわけじゃねえ... 槇絵 哲...てめえは俺の気も知らねえであのクマ公といちゃついてるんだろうが ...いいかげん気付よな、哲...こんだけおまえの事が好きなのによ... ...このままだと、そのうち二人きりになったら襲っちまうぞ、こら...... .........くそっ......やべえ...勃ってきた... 抱えた毛布に狼人属の特徴の長い鼻面をうずめて悶々としていると、眠気がどこかへ去って行く。代わりに七瀬の頭の中には、自らを慰める時に何度も使い回している卑猥な妄想が浮かんでいた。破る、押さえる、舐める、責める、悶える... 三分程そうして狭いソファの上でもぞもぞと動いていたが、部屋の外にかすかに響いた足音で冷水を浴びせられたように我に帰る。 しばらくすると足音は他の部屋に入って行ったようだった。 七瀬は溜息をつくと、文字どおり顔を洗うため部屋を出てトイレに向かった。 ......朝っぱらから何やってんだ俺は...... 6. 「おはようございまーす」 「...ういっす。やっぱりおめえが一番先だな。槇絵。」 「あ、七瀬...なんだ、また泊まりか?」 「悪り...ゲンさんには黙秘権、な、頼む。」 「ま、いいけどさ。身体には気をつけろよ。」 「...おう」 「おっはー...あれ?哲ちゃんだけじゃなくてニハっちゃんもいるー。珍っしー!!本日は豪雪警報出るね。やべー、傘持ってきてねーや。」 「雅くん、おはよ。」 「いろんなベッドで寝てるてめえとは違って、こちとらたまには早起きしたくもなるんだよ、雅...昨日と同じ服着やがって...下着くらい男に貰って変えろよ。」 「確かに汚れたから変えたよ、つーか脱いだよ。んもー、スースーして寒い寒い。」 「死ね!!」 「え?雅くん、ほんとに今下に何も穿いてないの...?」 「......」 「克海さん。おはようございます。」 「......ん、おはよう、槇絵。」 「おう、克海さん。コーヒィあるけど飲むか?」 「......ああ、七瀬......砂糖を多めに頼む。」 「克海さん、おっはー。今日もまだスイッチ入ってない?この指何本だー。」 「......その前に、雅、お前が小さすぎて見えない。」 「おはよう。皆さん。」 「あ、ゲンさん。おはようございます。あれ?外暑いですか?タオル使います?」 「ありがと、槇絵君。いや、厚着してきたら電車の暖房が効きすぎでして...ふう」 「ゲンさん、おっはー!!いやいや、ゲンさんの汗だったら俺拭きますってば、もー。んでこのタオルは俺の宝物に!ってね。ほらほら、上脱いでください!!」 「...ちょ、ちょっと...雅君...気持ちは嬉しいけど、自分でふけますから、ね...あ、七瀬君...!!...何も殴って止めさせなくても...」 「ゲンさん、はよっス...こうでもしねえと離れませんよ。こいつは。」 「ニハっちゃん...マジ痛いんだけど...」 「雅君、大丈夫ですか?...あれ?ところで克海さんはどちらに...?」 「......自分はこちらでコーヒィ飲んでおります。」 「ああ、おはようございます。」 「......ゲンさん、おはよう。と言っております。」 「まだ本調子ではないみたいですね......」 邂逅館雑務室の一日が、こうして始まる。 ------ 了 ------ 書庫のトップに戻る