1.
 夕方が近いのだろうか、昼頃には汗ばむほどだった陽気が落ち着いて、程よい気候となっている。
 時おり吹き抜ける風も、暑さを和らげる一迅の、というよりは、空気を循環させるための何気ない、と言った優しい風情に変わっていた。

(こうした季節が感じられるって幸せだよな・・・)

 槇絵 哲は、すっかり花を落とし、これから来るであろう陽光の季節に備えて葉を生い茂らせる桜の樹を見上げながら、そんな事を考えた。
 槇絵は子供の頃から、花をつけ、人に見られ騒がれると言うある意味では非常に理不尽な重労働を終えた後で、自分の本来の勤めを果たすかのように静かに、だが力強く緑を身にまとう桜の樹の方が好きだった。
 桜の花を誉めたたえ、愛でる人は多い。
 しかし、散った後、花をつけてくれた桜の樹を誉めたたえ、愛でる人は少ない。
 あまりにも少ない。
 槇絵にはそれが不思議であった。
 人間が、自分達の都合で敷いたアスファルトに追い立てられるように狭められた大地に、それでもなお根を張り葉を生やした桜のたくましい焦茶色の幹を見つめながら、しかし人間である槇絵は、鋪装された道を歩いている。
 
 槇絵がふと視線を移すと、隣に並んで歩いている虎人属の若者の横顔が見えた。
 こちらは槇絵とは対称的に、何を見るでもなく、とほんとした目つき。
 ふわふわとした足取りで、歩を進めている。
 自然は巨視的に動き、変化する。
 そして、それにくらべればなんとも目まぐるしく微少ではあるが、人も確かに動き、変化していく。
 動く事。
 変化する事。
 それこそが端的な生の本質。
 槇絵は、邂逅館に着いてからの雑事を思い出すと、小さく溜息をついた。 

 二人は今、邂逅館への帰路についていた。
 今年度半ばに、隣の県で行なわれる獣人属研究のシンポジウムに先立つ調整会議が邂逅館近くの大学で開かれた為、急遽、槇絵がかり出されたのである。
 本来ならば、邂逅館雑務室の一職員の、しかも人間である--------獣人属に関する研究は、歴史的な風潮を背景として獣人属本人達で行なわれている、と言う傾向が未だに存在するのである--------槇絵が出席するのは些か疑問が残るかもしれない。
 しかし今回は、当該分野への造詣が深い邂逅館実務室(実際に研究を執り行なう、邂逅館の本来の機能を果たす部署)の研究者が、急死した親の葬儀のため急遽欠席せざるを得なくなってしまったので、当の研究者本人の助手と、付き添いとしてもう一人、人員が必要となったのである。
 そして、その助手は雑務室の職員の中から槇絵にその仕事を頼んだ。
 助手の彼は、様々のシンポジウム参加者達の予定する、未見の研究内容の概要の統括や本人の要望を伝え、整理してもらう事、またタイムスケデュールの調整などの記録には、他の実務室研究者よりも事務処理的な仕事に慣れた雑務室職員の方が適していると判断したのだ。
 悪く言うと、白刃の矢を立てた、のである。
 良く言ったとしても、槇絵がかり出される事に変わりはなかったのだが。

「あの・・・瀬奈・・・さん?君?・・・うーんと・・・大丈夫かな?結構その場その場で乗り切っちゃったような気がするんですけど・・・」
「・・・細かい所は、後で主任に伝えて補足させます。」
「いや、まあ、専門分野とか発表内容の展望に関しては、君の方でフォロゥしてくれたから安心万全なんだけど、それでも、なんかほら・・・各研究所の進捗状況っていうか、駆け引きっていうか、時間調整なんかについてとか、もっとはっきりしないものに関しては、今日渡された資料に一応色々メモってはみたけど、今一つ、うーん、不安で・・・・・・」
「・・・槇絵さんが困る事ではないです。」

 槇絵を指名した当人である実務室職員、瀬奈 群青(せな ぐんじ)は、ゆっくりとした眠そうな口調で言った。
 昼の余熱を残す初夏の午後には、実に似つかわしい声である。
 実際、瀬奈は声ばかりではなく、容貌もはんなりとしたぬるま湯を思わせた。
 白に近い砂色の毛並みに焦げ茶の縞模様。
 柔らかく垂れ下がった目と眉。
 ついでに言うと、その耳も頭の上でへたりと倒れている。
 ・・・きっと、驚いたりしたらぴょこんと立ち上がるんじゃなかろうか?、と槇絵は常々思っていた。
 瀬奈の身体の中で鋭角的なものと言えば、カギ型に先の曲がった尻尾くらいではなかろうか。
 槇絵は、かつて瀬奈と何度か顔を合わせた事があるが、いつも今と変わらずにぼんやりとした印象を放っていたのを思い出す。
 印象の薄い事が、却って印象となってしまうという好例である。
 空いた間をうめるように、槇絵は言葉を紡ぐ。
 瀬奈とは面識があるとは言っても、それほど親しい訳ではないので、沈黙が息苦しいのである。

「瀬奈君はさ、携帯とか持ってないの?」
「・・・はい。」
「不便だなー、って思わない?」
「・・・持ってないですから。」

 持っている状態と比較しようがない、と言う事だろう。
 正論だが、会話を続かせる効用は炭酸飲料に含まれる果汁の成分率並に低い。
 案の定、落ちてきたような沈黙が再び訪れる。

「あれ?・・・でも獣人文化学的な分野だったら、俺よりも克海さんの方がずっと詳しいんじゃないのかな・・・」
「・・・でしょうね。」

 更にしばしの沈黙。

「・・・えーと・・・克海さん、いたよね・・・なんで頼まなかったの・・・?」

 瀬奈が雑務室を訪れた際、部屋には、じゃんけんで負けて司書整理に行かされている猫人属の雅と狼人属である七瀬を除いた、人間の槇絵と獅子人属の克海、そして熊人属の枯末の三人が揃っていたはずだ。
 確かに、残っていたメンバの中では槇絵が最年少である。
 しかし、目の前の虎人属の若者(実際、槇絵よりも更に若い)が、そうした年功序列を気にするようにはとても見えない。
 実務室に属する面々は、他の研究機関の御多分にもれず、浮世離れした変人が多い。
 『多いと言う評判だ』、『多いと言う噂だ』、ではなく、『多い』のである。
 と、その時、瀬奈が表情を変えずに、ぽつりと言った。



「・・・僕、嫌いなんです、克海さんの事。」
「・・・・・・へ、へえぇ・・・」

 世の中には、こうした時に理由を聞ける人間と聞けない人間の二通りの人種が存在する。
 勿論、槇絵は後者にカテゴライズされる人間だったので、冷や汗を流す程度の反応しか返せなかったのは当然と言えよう。
 更にこわばった沈黙(ただし、感じているのは槇絵のみ)が下りた。
 気を取り直そうとして、槇絵は話題を変える。
 もはや悲愴感すら漂っているように感じられるのは気のせいだろうか。

「そ・・・そういえばさ、今日の会議に来ていた犬人属の弥生さん、彼の訳したJ・クーパの新刊、もう読んだ?」
「・・・はい、主任に届いてた贈呈用がありましたから。」
「瀬奈君の感想は・・・?」
「・・・僕だったら・・・古本屋で100円だったとしても買いませんね。」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 沈黙したまま、歩き続ける二人。
 傾いた太陽が作る木漏れ日と、爽やかな緑薫が、夏が来た事を告げている。


 2.
「いや、ですからね、何も獣人生物学と歴史学的な集団剛性の関係性を否定したい訳ではないんですよ・・・ただ、あくまでも獣としての本能と人間としての理性、と言うアンビヴァレントな対立構造に原因を見い出そうとする観点からの考察はすでに先人の方達が幾度となく唱えてきた説であるにもかかわらず・・・」
「成功していない、とでも?確かにそれらはいささか結論を急ぎ過ぎるあまり既成概念の用語と思想を結び付けて、結果として一人歩きしているような安易な説明主義に陥ってきたと言う節はあるでしょうが、だからといってそうした観点を放棄すると言うのは乱暴です。」
「・・・それはそうです。あのー、だからそういう事ではなくて、全部をひっくるめてブラックボックスに押し込めた上にあぐらをかいて座るような、現代アメリカを中心とした、例えるならライルーズのような極端な社会装置としての獣人擁護論の派生の根拠を生物学的観点の領域にまで押し進めようとするのはどうかと言う・・・」
「思考実験なくしては本質をつかみきる事は出来ません。それが実社会に受け入れられるかどうかと言うのとはまた別問題としても、意義はあるでしょう。『理性とは、狂った本能に他ならない』と言う言葉がありますが、これにした所で人間としての理性における・・・」

 槇絵が邂逅館の雑務室に帰ると、扉の中から克海と枯末が何やら話し込んでいる声が聞こえた。
 どうやら休憩中の雑談のようだ。
 枯末と克海は同じ大学院を卒業した先輩後輩の間柄であり、専攻内容も極めて近かったため、雑談といっても八割方はこのような話となる。
 この分だと、ゲンさんと克海さんが真面目な話とやらをしたら、それはきっと平仮名なしの漢文だろうな、きっと・・・などと不謹慎な事を考えながら、槇絵は邪魔をしないようにそっと中に入った。
 エアコンのひんやりとした冷風が、皮膚を引き締めるように染み渡るのが心地よい。
 機会文明様様だね、と槇絵は自重ぎみに呟いた。

「あ、槇絵君、お帰りなさい・・・暑かったでしょう?」
「・・・ども、ただいまです。あ、いえ、大丈夫ですから・・・」

 枯末が、槇絵を気づかうようにしてソファから立ち上がり、席を空ける。
 肉体的な疲れだけでなく、気疲れもしていた槇絵にとって、さり気ないながらも嬉しい心遣いである。
 ・・・そこが好きなんだな、と槇絵は思う。

 枯末と付き合う───公私両方の意味を含む───ようになってから、槇絵はますますその『優しさ』が鮮明に分かるようになってきた。
 街中に張り出された、効果の有るとは信じがたいポスタ標語などで良く使われるような、押し付けがましいそれでは全く無い。
 大らかでさらりとしていながら、踏み込み過ぎない思いやり。
 それはいまや槇絵の全身を覆い、空気のように透明で、しかし大切なものとなっていた。
 もちろん、槇絵も枯末も、あまりそうした事を騒がれるのを好まない質である故、二人が交際している事実は周囲には知られていないままだ(と槇絵は信じている)。

(・・・欲目・・・かな?)
 
 欲目でも盲目でも、枯末が大切である事には変わりはない。
 柔らかい日射しのような暖かい気持ちを感じながら、槇絵は自分の席に腰掛けた。
 結局、好意の牽制合戦の結果として、ソファは空いたままになる。
 克海は、ちらりと槇絵を見やっただけで、コーヒィを一口飲むと窓際から離れて再び自分の仕事へと戻った。

「会議はどうでしたか?」

 枯末が、いつも通りの笑顔で槇絵にたずねる。
 いつもと同じ、温和な表情。
 ・・・そこも好きなんだな、と槇絵は思う。

「ええ、おかげさまでなんとか・・・」
「でも、今回のは割とあれですから、その気になれば後で何とかすればなるでしょうし、そんなに気負うもんでもなかったでしょう。」
「いやー、結構・・・こう、何ぶん初めてでしたから、ぐあーっ、となっちゃって・・・」

 英語に翻訳したとしたら、確実にぐだぐだになってしまいそうな日本製の会話が続く。
 どこがどう、と言う訳ではないのだが、先ほど克海と話していた時とは枯末の口調が違う事に槇絵は気づく。
 それがまた、嬉しい。
 克海が枯末にないがしろにされているのではなく───あくまでも、槇絵の主観に照らし合わせて、の話であるが───自分が枯末の中で特別に思われているのが分かるためだ。

「・・・とにかくもう、緊張しっぱなしでしたから・・・筋とかめちゃめちゃ張ってますもん、今。」
「ほんと、お疲れ様でしたね・・・どれ、じゃあ、大役を果たした槇絵様のお肩でも揉ませて頂きましょうか・・・」
「あははは、ゲンさん、いいですって、そんな目上のお人にしてもらうなんて・・・うおー、きもちぃい〜・・・」

 そんな二人の姿を、克海はパソコンのキーを打ちながらちらりと見やる。
 何も言わないが、少し、呆れているのかもしれない。
 枯末の大きな手のひらから、服越しに温もりが伝わる。
 ・・・これも好きなんだよな、と槇絵は思う。

 肩もみは、司書整理から戻ってきた雅に「あ!!哲っちゃん、イエローカード!!」の怒号と共に引き放されるまで続いた。


 3.
 槇絵は、休日の前の日はいつも枯末の家に泊まる事にしている。
 別に決まっている訳ではないのだが、気兼ねする事なく枯末と二人で過ごせる時間が欲しい槇絵は、枯末の出張などの時以外はほぼ毎週のように通っていた。
 しかし、そうやって何度となく通いつめているにもかかわらず、週末の仕事上がりには必ず、枯末は「あの・・・槇絵君、良かったら今日、家に泊まりませんか?」と言い、槇絵は「ゲンさんさえ良かったら・・・泊まりに行ってもいいんですか?」と言う。
 もちろん、どちらも本気で言っている。
 もっと図々しくなっても良いのかもしれない、と思いながらも、今一つ遠慮のぬけ切れない槇絵である。

 今日も今日とて例外ではなく、いつも通りのそうしたやり取りの後、槇絵は枯末の家へと向かった。
 一応、二人の関係は秘密にしている(くどいようだが、槇絵はそう信じている)のだから枯末の車で一緒に家まで行く訳にもいかないのである。
 夏の遅い日もすっかり暮れかけ、遠い空には荘厳なグラデーションがかかっている。
 枯末の家(昔ながらの木造一軒家である)につくと、もらっている合鍵で戸を開ける。
 丁度シャワァを浴びていたらしい枯末が、バスタオルを腰に巻いたままの姿で出迎えてくれた。

「晩飯、なんにしましょうか・・・」
「何にしますかねえ・・・」
「・・・槇絵君、何か食べたいものは有りますか?」
「えーと・・・なんでも。」

 枯末が苦笑する。
 困ったやつだ、と言わんばかりの大人の顔。
 ・・・これも好きなんだよな、と槇絵は思う。

 何にする?と聞かれて、何でも、と答える。
 このやり取りも、いつも通りのもの。
 しかし、これは槇絵にとって遠慮なんかではない。
 実際、枯末が食べたいものなら、全く異論はなかった。
 例え、じゃあチェーン店で牛丼でも・・・と言われても───もちろん、実際にそう言われた事は一度もないが───最近全然食べてないんで久々で良いですね、と喜ぶ事すらできるだろう。
 枯末がそう言えば、槇絵はその言葉を鵜呑みにできた。
 自分もそう思っていたのだ、と瞬時にして思ってしまえる。
 無理をしてもらうくらいなら、自分が無理をした方がよっぽど良い。
 だがこれも、枯末が自分の事を思ってくれている、と言う信頼のもとに成り立った感情であるのも自覚している。
 枯末が、常に自分の事もしっかり考えてくれているであろう事が分かるから、その決定に唯々として従える。
 枯末の思いやりには、自分もできうる限りでの思いやりで応えたい。
 そうした気持ちが、『何でも良いです』イコール『あなたの決定に従います』という、我心を殺した台詞となって現れてしまうのだ。
 決して責任を枯末に押し付けている訳ではない。
 むしろ、全くその逆なのだ。

「和・洋・中だったらどれが良いですか?」
「・・・うーんと・・・」
「肉と魚だったら?」
「・・・どっちでも・・・」
「熱いものと冷たいものだったら?」
「・・・・・・ゲンさんは、どっち?」

 もちろん、こうしたやり取りには槇絵自身がもともと優柔不断である事も大きく関与してはいるだろうが。

「決まりませんねえ・・・」
「・・・いや、だからほんと、ゲンさんの食べたいので・・・」
 
 寝室となっている六畳間に入ると、着ていたTシャツをハンガにかけながら、槇絵が答える。
 すっかり汗ばんでいたので、自分も風呂を貸してもらうつもりだった。

「・・・私の食べたいもの、と言うと・・・」

 枯末の声が、いたずらめいた響きを帯びる。
 あ、と思った時には遅かった。

「・・・やっぱりこれですね。」

 腰がつかまれたかと感じた瞬間、背中に枯末の体温が密着した。 
 未だ乾き切っていない冷たい獣毛がしゃりしゃりと当たる。
 脇の下からまわされた腕が、ぎゅう、と力強く抱き締める。
 少し息苦しいくらいだ。
 枯末の手が、さわさわと動き出す。
 外気に触れたばかりの肌が敏感に反応してしまうのが恥ずかしい。
 槇絵の尻に当たるタオル地が、熱く盛り上がるのが分かる。

「・・・っ・・・ゲンさん・・・」
「・・・どうかしましたか?」
「・・・今は駄目だよ・・・」
「・・・じゃあ、後ならいいんですね?」



 首をひねると、枯末のにやにやしている顔が見えた。
 細い目は更に細められ、楽しくてしょうがないという表情。
 そんな顔の前でだけしか見せない、自分のもう一つの顔を映す瞳。
 自分しか知らない、枯末のもう一つの顔。
 おじさん臭くて、助平で、憎たらしく・・・そして何より可愛らしい。
 ・・・これが一番好きなんだよな、と槇絵は思った。

「・・・晩飯、少し遅くなってもいいですか?」

 枯末の問いかけに。
 槇絵は、こくん、と頷いた。


 ──────了──────