1.
 駅前の広場には、多くの人がごった返している。
 虎人属の瀬奈 群青は、植え込みを囲っている柵に腰掛けた。
 待ち合わせしている『彼』は、まだ来ていないようだ。 
 毛皮の下の地肌が突っ張っているのを感じる。
 洗顔料でなく、石鹸で顔を洗ったせいだろうか。
 ホテルには備わっていなかったのだからしょうがない。
 瀬奈は、そっと自分の頬に触れてみる。
 ふわふわとした毛皮の感触。
 二、三度、今度は強めに撫でてみる。
 指には何も付かない。
 汗も唾液も精液も、昨夜の痕跡はすべて洗い流した。
 昨夜の男は妻子持ちの人間だった。
 獣人属好きの人間も、最近では珍しくない。
 やたらと愛想笑いをする男だった事は覚えている。
 息子ですら君より年上なんだ、と言っていた。
 瀬奈に卑猥な言葉を言わせては、悦に入って喜んでいた。
 口の中に出すぞ、と瀬奈の後ろから引き抜いて、間に合わずに顔にぶちまけられた。
 毛穴の奥に残ってないだろうか。
 瀬奈は少し顔をしかめた。
 高架線のホームに電車が停まる度、改札口から大勢が吐き出される。
 男、女、人間、獣人。
 瀬奈は、過ぎ行く人々の顔をぼんやりと見つめていた。
 大人のほとんど(場合によっては子供ですら)が、『行為』をした事があるだろう。
 皆、取り澄ました表情とは別の顔を持っている。
 瀬奈は、そうした別の顔を数多く見て来た。
 時々、『行為』の最中ですら、何故自分はこんな事を繰り返すのだろう、と思う。
 自嘲でも自戒でもなく、それは純粋な疑問だった。
 相手の喜ぶ顔が見たいからでは決してない。
 そもそも、昨夜の相手の顔は、もう印象に残っていない。
 また会いたい、と名刺を渡されたが、名前を見てすらいない。
 同じ邂逅館の雑務室で働く身体の小さい青猫のように、娯楽の一つとして、スポーツ感覚で、と割り切っている(本人が日頃からそう言ってはばからないらしい)訳でもない。
 『行為』の頻度なら、自分はその青猫と同じかそれ以上だろう。
 少なくとも、楽しんでいると言う自覚は、瀬奈にはほとんど無かった。
 あるのは、もっと何か、必死で切迫した感情。
 それはその瞬間だけの意識。
 熱い吐息も滴る汗もぬめる皮膚も侵入される肉の感触も、過ぎてしまえばなんという事も無くなってしまう。
 時には痛みを伴い不快ですらあるのに。
 感情と感触は、その事に関して言えば等価だった。
 奉仕して、要求を受け入れて、繋がって、果てて終わる。
 終わる。
 残るのはそれだけか。
 何かを得たいのか。
 何かを試したいのか。
 風の少ない晴れた午後。
 自分とは無関係に動く人々。
 フィルタを通したような遠い喧騒。
 雑多な思考をシャットして、瀬奈は意識のスイッチを切る。
 その途端、あまり睡眠をとっていないせいか、柔らかい日射しに解凍されるように眠気が湧いて来た。
 昨夜は、お互い二回づつ放って終わった。
 その男に抱かれて眠ったが、瀬奈にとっては暑苦しく鬱陶しいだけだった。
 腕を振りほどいても、いびきをかかれてしまい、良く眠れなかった。
 時計を見上げると、待ち合わせ時間を5分程過ぎている。
 今日会う予定の『彼』は、まだ来ない。

  2.
 目の前のガラス壁の向こうに、巨大なオブジェがそびえ立っている。
 午後になって切れた雲から射し込む日射しを反射して鈍く光るそれは、焼き過ぎたスルメのように有機的に曲がりくねっていた。
 おそらくは製作者(あるいはクライアント)によって何らかの名称や意図は与えられているであろうが、傍目には全く不明である。
 美学的見識があまり豊富でない───つまりその場を行き交う大部分の───人々にとっては、待ち合わせの際の目印、位の認識しか持たれないだろう。
 猫人属の雅 真理は、その無駄と言う芸術価値を持ちきる事すら出来ない建造物を眺めながら、紙コップの底にわずかに残っていた炭酸飲料を飲み干した。
 昼と夕方の中間の熟した太陽が、雅のいるファストフード店内を照らしている。
 休日の今日、色とりどりの服に身を包んだ若いカップルや家族連れ、店名入りの紙袋を持った少女達、部活帰りなのか揃いのジャージ姿で大声ではしゃぐ少年らで、席は七割方埋まっていた。

(・・・あ、ポテトもうねーや。)

 外に面した一人用のカウンタ席は、見せしめにあっているようで長居をしづらい。
 口元を一舐めしてナプキンで拭くと、雅は席を立った。
 街は、普段は然るべきビルや建物や職場にきちんと収納されているであろう人々がどっと溢れ出している。
 まるで大掃除の最中だ。
 既に所期の目的を終えていた雅はこのまま帰っても良かったのだが、そんな気にはなれなかった。
 せわしなく、しかし賑やかな空気が、何かを根拠もなく予感させる。
 大掃除の最中には、普段見られないもの、忘れてしまっていた物がどこかから不意に顔を現すかもしれない。
 たった一度限り、見逃してしまったら、とても悔しい思いをするかもしれない何かが。
 遠くから聞こえてくる祭り囃子や、自分が帰った後の宴会もそうだ。
 雅にとって、それは常に自分が見損ねるかもしれない楽しい何かを含んでいるように思えてならない。
 その結果、大体が徒労で終わると分かっていても、素直にはあきらめ切れない。
 大学を卒業してから随分と性格が変わったな、と自分でも感じる雅であるが、この性分は昔のままであった。
 ただし、以前の雅なら、取り残されるような気がしても結局は行動に移せずに、切ない思いを抱えたまま帰ってしまっていたであろう。 
 今は、居残れる。
 傍目にはガキっぽくなった、と言われるであろう変化だが、雅本人は成長したおかげ、と考えていた。
 熱を失う事だけが成長ではない。
 成長とはつまり、疑問を抱いた現状を変化させる現象の発露だ。
 そういう意味では、ずいぶんと自分は成長できた、と雅は思っていた。

(とりあえずCDの新譜でも見て来よっかな・・・・・・あれ?)

 次の目的地について頭を巡らせていた雅の眼に、良く見知った顔が飛び込んで来た。



 30m程離れているが、ほぼ毎日顔を合わせているのだから見間違うはずもない。
 その外見は、人込みの中でも良く目立っていた。
 おまけに、普段とは違い、こざっぱりとした格好までしている。
 尾行してみよう、と雅が思ったのは別に深い意味があったからではない。
 普段見られない物が見られるかもしれない。 
 そんな、軽い好奇心からだった。

(・・・なんかこんな歌詞の歌、あったよな)

  3.

「よう!」

 頭の上から聞き覚えのある声が降って来た。
 いつの間にかうたた寝をしていたらしい。
 瀬奈が顔をあげると、一人の男が立っていた。
 焦茶色の毛並みの犬人属。
 頭毛はムースで固められ、派手なロゴの入ったジャージ姿。
 金色のネックレスにサングラス。
 セカンドバッグを持ち、足下はサンダル。
 香水の香りは、ややきつめ。
 待ち合わせをしていた『彼』だ。
 パンチパーマにしたら完成か、と瀬奈は思った。
 何が完成なのかは深く考えなかったが。
 時計を見上げると、約束の時間を既に30分程過ぎている。
 瀬奈は、彼の顔に視線を戻し、また時計を見る。

「さ、行くべ。」

 彼は短くなった煙草を足で揉み消すと、顎をしゃくった。
 瀬奈の言いたい事は伝わらなかったようだ。

「茶でもすっか?」

 言いながら彼は、新しい煙草に火をつける。
 鼻から盛大に吐き出される煙。
 瀬奈が返事をしようとしたその時、派手な曲が流れた。
 セカンドバックから取り出した携帯を耳にあて、彼は話しはじめる。

「あーもしもし、俺オレ、んー、おー、シャチョーにかけたけど繋がんねーンだもんよ。」

 彼と会ったのはこれで三度目。
 屋外で服を着た状態で会うのは初めてだ。
 初めて会ったのは特殊な趣味の人々の集う店の一室。薄闇の中。
 二度会い、二度身体を重ね、強引に誘われ、今日ここに至る。
 従順で(とは瀬奈の自己評価)『行為』の最中のノリの良い(とは彼の評価)瀬奈を、彼が気に入ったためだろう。

「っつーかよぉ、パチンコでボロ負けだっつの!五万近くいったっつの!・・・おおよ、マジムカついたから店員の女に因縁つけて泣かせてよぉ・・・ぎあっはあっははは!!・・・マジな話し、知り合いにそっち系いっからダンプその店に突っ込ませるかとか思って・・・そりゃうちの車は使えねーべ!ああ、折角だからシャチョーの車使うかとか・・・そそそ!!車内にガソリンまいて火ぃつけて!!」

 彼は話しながら、瀬奈の方はほとんどかえりみずに歩いてゆく。
 瀬奈は、帰ろうかと思ったが、うまい理由が差し当たっては見つからなかった。
 もともと時間は空けてあるのだから、変わった人属種と接して時間を潰すのだと思おう。
 とりあえず彼の後についていく。
 そのまま、日影の多い裏通りに入った。
 純粋な休息よりも激しい運動を目的とする人々が利用するであろうホテルが立ち並ぶ。

「あん?何言ってんのおめー・・・ざけんなっつの。」

 話は終わったらしい。
 携帯を仕舞いながら彼が瀬奈の方を向いて笑う。
 安い油じみた口臭。
 黄色くくすんだ牙。
 血管の目立つ白目。
 露悪的な人柄は、どうやら彼の地のようだ。

「今日はよ、たっぷりやってやっから覚悟しろよ・・・お前の顔見ただけでもうこんなになっちまってる。」

 野卑な笑い声。
 歩きながらそう言うと、瀬奈の手をつかみ、無理矢理に彼自身を握らせる。
 感極まったような吐息が彼の口からもれる。
 既に相手は高ぶっているようだ。
 こちらの気分などお構いなしで。
 ・・・・・・ざけんな。
 不愉快と苛立ちの混じった溜息が、瀬奈の口から小さくもれる。
 そのまま、思考のスイッチを切る。
 惰性と情動で動き、時間が過ぎてくれるのを待つ。
 感情も感触も、過ぎてしまえばきっと一瞬だ。
 思い込んでしまえ。
 考える事を止めれば、ずいぶんと楽になる。

  4.
「んと、ジンジャーエールとミックス・・・じゃなくてプレーンピザ、お願いしまーす」

 店員にメニューを返すと、雅はもともと小さい体を更に縮こまらせて、そっと離れた席の様子を伺った。
 大柄な体躯と、丁寧に撫で付けられたたてがみが良く目立つ。
 その姿はまぎれもなく、雅の働く邂逅館雑務室の同僚、獅子人属の克海 天渡志だ。
 街中で彼を発見してから一時間弱。
 大型デパートや本屋を巡る克海の後を尾けてみた雅だが、それはなかなかに面白い体験だった。
 他人のプライバシィを覗き見している、と言う新鮮な感覚。
 尾行する対象が、職場の同僚でありながらあまり私生活を見せない克海では尚更だ。
 普段の克海からは想像もつかない意外な一面を見る事も出来た。
 そして、最初の発見現場からあまり離れていないファミリィレストランに入った克海の後を追って雅も席についたのがつい先ほど。

(でも、なんで禁煙席なんかに座るんだろ・・・)

 克海の席が禁煙席である事に雅は驚いていた。
 邂逅館雑務室において克海は一日に一箱は吸うスモーカとして認識されている。
 煙草で体の半分が出来ている、とふざけ半分に噂されている───噂の出所は雅だが───ほどだ。

(ひょっとしてダイエットのつもり?いやまさか・・・でも・・・)

 何しろあの克海さんだからな・・・と雅が失礼な事を考えていたその時。
 雅の視界にもう一人、入り口の扉を開けて見知った顔が飛び込んできた。

(あれ?・・・あいつって確か実務室の・・・)

 垂れた目と耳。
 特徴のある毛並みの虎人属。
 雅が記憶を探っていると、驚いた事に克海が軽く手を上げ、今入って来た彼に『ここだ』とでも言うような合図を送った。
 雅からも分かるほどに勢いよく溜息をつくと、彼は克海の座っていたテーブルへと歩みを進めた。
 傍目に見ても、憮然としか言い様のない表情をしている。
 雅は慌てて隠れ、そっと耳をそばだてた。
 克海の向いに座った彼───あ・・・そうだ、確か『セナ』とか言ったっけ、あいつ───は、ウェイタに注文を済ませると、表情を変えず口を開いた。




「・・・何してるんですか?」
「待ち合わせだ。」
「・・・何笑ってるんですか?」
「待ち人が来たからな。」
「・・・それは良かったですね。」
「ああ、良かった。」

 そう言って、微笑む克海。
 瀬奈は黙って水を飲む。
 
「今日は何をしていた?」
「・・・『いつも通り』他の人とホテル行って寝てました。」
「・・・そうか。」
「・・・そうです。」

 事も無げに会話をかわす二人を見ながら、雅の頭は混乱しそうだった。
 訳が分からない。
 いや、分かるからこその衝撃か。
 それはともかく。
 克海と瀬奈が待ち合わせ。
 かなり親しい様子。

(んな、確かに克海さん前に恋人いるとは言ってたけど・・・でも、あいつがそんな・・・え、だって・・・あれえ?)

 向かい合う二人のラブラブしているイメージは欠片も湧いてこない。
 下半身事とは光年単位で離れていそうなのに。
 まあ、恋愛は首から上だけとか場合によっては文字だけでもできるけれど。
 違う、そうじゃなくって二人がそう言う関係になるってのが信じられないんだ。
 なんでよりにもよってあんな二人が・・・いやいや・・・
 そう言う・・・って、でもやっぱり付き合っているんならへそより下の関係もきっとあるだろうなあそりゃあ・・・
 らちもない思考に陥る雅をよそに、瀬奈は運ばれて来たウーロン茶をすする。
 不機嫌そうな───いつも通りの顔をして、視線を落としたままだ。
 そんな瀬奈を見つめる克海。 

「・・・で、何の用ですか?」
「『いつも通り』うちに泊まっていってほしいと言う提案だ。」
「・・・煙草・・・」
「ん?」
「・・・煙草吸わないんですか。」
「ここは禁煙席だ、それに・・・」
「・・・・・・」
「お前が嫌がる。」
「・・・そりゃどーも・・・」

 どうでも良さそうに呟く瀬奈。
 テーブルの上に置かれたその手を克海がさり気なく握ろうとしたが、素早く振払われてしまった。
 二人の表情は変わらない。

「これから車検の引き取りがあるから帰りは遅くなる。」
「・・・そうですか。」
「そんな訳だから先に帰っていてくれ。うちの合鍵は持って来たか?冷蔵庫の中の物は好きに食べてくれて構わない、ただしガスを使うなら火の元には気をつけろ。疲れているのであれば寝ていても良いぞ。」
「・・・なんで僕が一人でわざわざ克海さんの家まで行かないといけないんですか。」
「一緒に行くか?」

 克海がからかうようにそう言うと、瀬奈の眉間にしわが寄った。 
 癪に触ったらしい事は雅にもはっきり分かったが、克海の笑顔は変わらない。
 しばらくの沈黙の後、忌々しそうに瀬奈が口を開いた。

「・・・ったく・・・毎度毎度、人を莫迦にしやがって・・・くそっ・・・」

 吐き出した言葉は、一瞬で周囲の喧騒に溶けて消える。
 だが、何か悲愴な空気は二人のまわりから消える事はなかった。
 
「・・・すまん・・・正直者だからな。」

 そう言って謝った克海は、今まで雅が見た事のない表情をしていた。

 ──────数分後──────
 
 結局、あの後瀬奈は一言も喋らずに店を出ていってしまった。
 叩き付けるように置かれたウーロン茶代が、まだテーブルの上にそのまま残っていた。
 新しい注文だろうか、克海がウェイタを呼んで何事か話しかけている。
 それを尻目に、席の中で身をすくめて再び隠密モードに戻る雅。
 大きく息を吐くと、体中から力が抜ける感覚がした。
 修羅場めいたやり取りに緊張していたせいだろう。
 すっかり冷めてしまったピザを手にとりながら、雅は充実感に浸っていた。
 たまにこういう事があるから、居残りは止められない。
 予想以上の特ダネに若干後ろめたさも湧いたが、見てしまったものは仕方がない、と前向きに割り切る事にした。
 今日の出来事を頭の中で時系列順に整理しながら、ジンジャエールでピザを流し込む。
 と、その時。
 傍らに人の気配。
 雅が顔を上げると、先ほどのウェイタが水の入ったコップを持って、所在なさげに立っている。 

「・・・何?お冷やだったらまだあるけど・・・」
「いえ、あの・・・向こうの方が・・・」

 そう言ってウェイタは克海を指差した。

「『これをあそこの青猫パパラッチ野郎の頭に浴びせてくれ』とおっしゃってたんですが・・・」
「!!」
「・・・よろしいんですか?」
「・・・・・・自分で浴びるからいいっす・・・」 


  5.
 鍵を使ってオートロックの自動ドアを抜ける。
 丁度来ていたエレベータに乗り込み、目的の階を押す。
 正面のガラスにうつる自分の顔を眺めていると、目的の階に着いた。
 しんとした廊下を歩く。
 コンビニの袋が鳴る音がやけに大きく響く。
 ドアの鍵を開け、中に入る。
 部屋の中は暗い。
 靴を脱ぎ、揃え、下駄箱に仕舞う。
 短い廊下を抜けると、扉の向こうが居室。
 静かに開ける。
 わずかな不安。
 かすかな期待。

「・・・・・・」

 ゆっくりとした寝息が聞こえた。
 自然と、笑みが浮かんでしまう。
 心が沸き立つのが分かる。
 現金な自分に呆れてしまうが。
 やはり、嬉しい。
 荷物を置くと、寝息の主の顔をそっと覗き込む。
 垂れた目と耳。
 特徴のある毛並みの虎人属。
 瀬奈の、優しい寝顔。
 跳ね上がった頭毛を、軽く指で撫でる。
 その刺激に薄く目を開けた瀬奈に。
 克海は言った。
 
「ただいま。」


 ──────了──────

 
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